この間のパレスチナをめぐる情勢に関して、日本のメディアの論調は「憎しみの連鎖」「宗教対立」といった表現で、歴史的文脈を十分に伝えず(あるいは隠し)、なにか私たちにはかかわりようのない、遠い問題のような印象を与えていると言えるのではないでしょうか。しかし実際には、日本に住む私たちも、この現状と無関係ではあり得ません。
今年度のPARC自由学校では、暗澹たる世界情勢に対し目を背けることなく、戦争・暴力と向き合おうと、複数の講座を企画しました。その中のひとつは、当事者(ディアスポラ・パレスチナ人ムスリム)のパレスチナ研究者でありながらイスラーム地域研究者として、パレスチナ問題について独自の視点から考えてきたハディ ハーニさんに、企画をお願いしました。
ハディさんからご提示いただいた講座タイトルは、「当事者と/当事者として考えるパレスチナ問題――難問から世界をみる」です。講座申込みはすでに定員に達しましたが、開講にあたって、本講座の企画意図をハディさんにご寄稿いただきました。(PARC事務局)
【特別寄稿】パレスチナ/イスラエル問題について「当事者」になるということ
ハディ ハーニ(明治大学特任講師/東京ジャーミイ文書館理事)
この講座はパレスチナ/イスラエル問題について多角的・統合的な理解を得ることを目指して設計しました。その背景について、少し述べておきたいと思います。
私はこれまで何度か、この問題に関する公開講座をさせていただく機会を持ってきました。今でも印象に残っている感想に「両者ともなぜそうまでして戦うのだろうか。本当に野蛮だと感じた。早く話し合いで平和を達成してほしい。日本に生まれてよかったと改めて思った」といったものがありました。それを聞いた私は、日本人にとってこの問題を理解することはそれほど難しいことなのだろうか、なぜわかってくれないのだろうかと、もやもやした気持ちになったことを今でも覚えています。
この感想をくれた方の理解には、ある種のバイアスがかかっていたのかもしれません。ひとつには日本の平和教育が、いかなる理由があっても戦争行為それ自体を忌避するよう刷り込んだ結果として、何であれ戦っている人は野蛮であり、また「理不尽に抗する手段としての戦争」を理解できなかったのかもしれません。それなら、ウクライナについても同様でしょうか。あるいは、日本が他国の侵略を受け分割統治を強いられた状況を想像したら、ようやく理解できるでしょうか。もちろん対話による平和の樹立は最も重要であり、戦争は無いほうがいいに決まっています。とはいえ戦争によってでも守るべきものはあると、私は考えます。ゆえに多くの国の法律で、また国際法で、戦時法規定や武器の取り扱いに関する条項などが存在するわけです。
我々は「自分ごと」でなければ「戦う人々の心」を理解できないのでしょうか。そうだとすればそれは「想像力の貧困」と言わざるを得ません。想像力を養うためには文脈を共有することが重要です。カギになるのは、歴史的文脈や、宗教や国家について、文学を通じた彼らの心について、確かな知識を持つということです。この講座のタイトルにある「当事者」になるということは、そうした知識に裏打ちされた想像力を持った人になることを意図しています。
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ハイブリッド連続講座 当事者と/当事者として考えるパレスチナ問題
●講師&コーディネーター:ハディ ハーニ(明治大学特任講師/東京ジャーミイ文書館理事)
●ゲスト講師:土井敏邦/岡 真理
●2024年6月~10月 ●水曜日19:00~21:00 ●全8回
●開催形式:対面(PARC自由学校教室)またはオンライン(zoom)の選択制
※本講座は定員に達したため、お申込みの受付は終了しています。